大久保諶之丞碑
大久保諶之丞碑
現代語訳
南海即ち四国はけわしい峰や高い山が南北を横断し、馬のせぼねの様であり、讃岐・伊予・阿波・土佐の四国が南北で土地を分け合っている。生活様式も違い、産物も往来が無い。その為昔から文化の低い僻地としての地位に甘んじてきた。ところが、この四国に道を付け、一つの地域として生活様式を同じにして生産物を流通させ、全ての人が豊かになる基礎を作ったのが大久保諶之丞君だ。
君の人柄は仁義に厚い一方、大胆で知略があった。おだやかで優しかったが、一方思いきりもよかった。国の行く末を気にかけることは、自分の家を思う様であり、公に尽くして私欲は持たなかった。早くから言っていたのは、「産物を増やし、商業を盛にするには、道路を開いたり改修したりする事から始めたら良い。」と。普段から算数を好み奥深い所まで理解した。そこで費用を自弁し四国の地理を測量した。ある時は高い山によじ登り、ある時はくさむらを這い、早朝、星のまだ出ているうちに出発したり、野宿したり、細々と辛酸を舐めながら凡そ、山や川の高低、距離の遠い近いを暗記して明瞭に話した。胸算用が出来上がった後にこれを公にして同志を集めた。ところが封建時代から続く習慣、即ち、古いことを守り、新しいことを嫌い、自分の考えを信じて他の人の考えを疑うという人が多く、賛同する人はとても少なかった。
君は一人で伊予、讃岐、土佐、阿波の四ヶ国を走り廻り、各方面に出向き説得した。数年後初めて同志ができ、役所に請願して許可を得た。明治十八年工事を始め、二十三年完成した。新道はおおよそ五十里余であった。草原を刈り、岩を掘り、狭い所は広げ、険しい所は切って平坦にし、低い土地は底上げし、まわり道は真っすぐに遠くは近くになり人や馬が疲れ病気になることなく、車は傾かない様になり、物や荷物の運輸が流れるようになり、人の智恵が発達し、毎日毎日が文明に向かった。かつて他と違った地域に見えた所も今日の開通によって初めて一つの地域になり、その便利さは口では表せないほどである。まさにこの時、讃岐鐵道の工事もまた起こった。君も関って力を発揮した。何年か後延長し、四国すみずみまで行き渡ればその便利さは口では言えない程である。そうして道を開くことを一番最初に言い出した功績者としては君を推さない訳にはいかない。君が公益を図ったのはただこれだけではない。村里の川に橋を架けたのは大小含めて九箇所あり、その費用の半分以上は本人が出している。長谷池を作った時は、水を引く田が二十五町歩あった。その時は凶荒と言えるほど不作で生活に困った人が労働者として働き、飢餓を免れた。その数は数百人にのぼった。常に農業、蚕業に心を配り、野菜、穀物、果樹の良い苗を求めては村民に分け与えた。また人に先立って蚕を飼い生糸を製造したが、それも十数年に及びその盛んさは県内で右に出る者がなかった。郷里の子どもに勧めて小学校に行かせ、優秀な者には中学、あるいは師範学校に進ませ、辺鄙なので医者がいないのを憂い学生を選んで医学を学ばせ、その授業料を給与したこともある。讃岐の土地は肥えているため、周囲から人が集まり、田地が不足する。君は自ら資金を出して毎年数百人を北海道に移住、開墾に従事させた。また同志を集め、一つの会社を作り、資金を溜め、益々移住者を増やそうとした。しかしながら途中で病にかかり亡くなった。ああ、惜しいことだ。君の家は豊かで一村の素封家と称えられ、道理にかなう事には、寄付を吝まなかった。ところが、亡くなった時の遺産は八人家族が食べるのに充分でなかった。国を思うこと我が家の様で公に奉仕して自分を忘れる者でなかったならどうしてこのようなことになろうか。この事を政府が知り、銀盃を与えてほめたたえた。君は嘉永二年八月十六日、讃岐国三野郡財田村に生まれた。明治五年村役人となり、ついで副区長となった。三野豊田二郡の勧業、教育などを担当した。また愛媛県農談会、勧業諮問会、六郡農産共進会などの委員となった。二十年愛媛県会議員となり、二十二年香川県会議員となった。二十四年閣龍博覧会委員となり、二十四年十二月十四日亡くなった。享年四十二。村内の父母の墓の傍に葬った。妻は同族利吉の娘。一人の娘を儲けた。菊枝と言う。養子の衡平にそわせた。衡平は早く世を去った。孫息子が居た。豪と言う。先祖の祭りを受け継いだ。祖父を與三治と言う。村民に勧めてサツマイモを植え、砂糖を製造した。今日村全体が盛んなのには、その力が大きくかかわっている。また阿讃の山道を改修し、運搬を便利にしたり、資金を出して多度津港を築くのを助けたりした。父を森治と言う。池を掘り、田地を開き、果樹を植えるなど村民の利益となったことは多い。
君は三男でありながら家を継いだ。普段から公益を画ったのは父と祖父の志を継いだ為だ。兄を菊治と言う。またよく先祖の志を心にとどめ、君が各所に出向くと、君に代わって家を守り、資金を送り、君が家事上の心配がない様にした。弟を彦三郎と言う。学問を好み、以前自分の学舎に居た。君は彦三郎の仲介で私に会った。話は四国の道を開くことに及んだ。私はこの事業に賛同し、集大成の三字を書き贈った。後に彼がよく大勢の志を集め大業を成し遂げたことを聞き、とても喜んでいた。ところがほどなく死去の知らせに接してとてもその死を惜しんだ。昨年財田村長正木美隣がやって来て石碑に刻む文章を求めて言った。「県内有志の者が相談してその功績が朽ちないようにしようと願っている。」自分は承諾したがまだ筆をとっていなかった。たまたま故郷の備中に墓参りに帰郷することになり、海を航り彦三郎を訪問し、石碑を建てる土地を見た。さわやかな高台で眺めが良い。南は山脈の険しくそびえるのを仰ぎ見て開削の苦労を想った。北は多度津の海を見下ろすと商船が集まり、陸の貨物を輸出している。この富み栄える様を見るのは喜ばしい。ああ、自分は一旅人に過ぎない。それでも残された功績を思うと止めどがない。いわんや、この地に住み、利益を受ける者においてはその功績を思い起こすことは深いであろう。東京に帰ったのち、銘文を送り、その石碑に彫らせて言う。
最初に考えをめぐらすことは難しい。君は一人忙しく動き、あちらを誘いこちらを導き、走り廻って気が狂いそうだった。成功を楽しむことは、簡単なことだ。民は皆喜んで南に運び北に送り車や馬は雲のように軽々と動く。狭い世界を開明に向かわせたのは、ああ誰の功績か。険しさを平らにしたのは誰の力か。ゆるやかに歩ける大道が四つの地域に貫通した。一歩半歩、歩くと遺されたその仁徳を永く思い起こす。
明治27年(1894年)7月
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更新日:2023年09月13日